研究者を取り巻く環境は今後どうなるのか?
本記事の読者層は以下の方を想定しています。
- 研究をしたい行いたい方
- データ解析をしたい人
- ビジネスをしたい人
「博士号」はどこで取る?
学歴社会という言葉が最近では廃れつつあるような気がする。
学歴としての最高峰は、博士課程を卒業するなのかと考えている方は多いのではないだろうか。博士課程を卒業すると、ある分野では右に出るものがいないほどの専門知識が増える。一方で、現在の日本の企業研究者の多くはなぜか修士卒が多い。これはなぜだろうか?
一方、欧米諸国に目を向けてみよう。欧米の場合では、「博士号」を取得しないとプロフェッショナルと認めてもらえず、大企業と呼ばれる職につけない。私も米国の大学で博士号を取得した。中でも仲が良かった卒業生の一人は、インテルへ就職した。なぜ、米国では博士をとらないとプロフェッショナルとして認めて貰えないだろうか?
何度も伝えてみるが、日本の「博士」と海外の「博士」を比べたときに国内の「博士」の価値がなぜか年々低下している。国内で「博士号がとっても就職できない、それだけでは食えない」という状況をどのように捉えるか考えて今回は考えて見たい。
研究者の価値と研究者の戦略とは?
日本の大学の研究者の置かれている環境分析を行ってみることにする。この場合は、「博士号」を持つ個人がどのような外部環境にさらされているのか、そして内部環境はどんなものかについて、企業価値ならぬ、個人の価値について掘り下げていきたい。
博士の外部環境分析
博士の市場規模とすると、現在、大学院への進学率は2023年現在で12%ほど。大学進学する学生の1/10人は大学院生に就職する。最近の世界統計でいえば、日本の博士課程修了者は2万人ほどいる。これは先進国の中では最も取得率が低い希少人種ということになる。人口面で勝る韓国より低い博士取得者であり、競争の激化はほとんどない緩やかな市場といってもいい。
逆に言えば、同じ「博士」市場での競争力はない。競争する場もない。国内の博士に興味を持つモノが少ないのかもしれない。
博士の内部環境分析
「博士」自身の能力について考えてみる。国内の博士取得者に「博士号」という取得に対する能力が備わっているか見てみたい。博士を持つ大学院生は、毎日、大学教員から教員の趣味の研究を毎日押しつけられていて研究三昧。人におだてられて研究を行うだけのロボット助手になっている場合はないだろうか。研究テーマを与えられて、研究をして、その一連のルーチンワークがもしかしたら研究と勘違いをして日々豊かな生活を送ってはいないだろうか。この場合、博士号の研究スキルは労働スキルであり価値はあまりない。
博士の価値
博士の価値とは?国内の博士とはどのようなものなにか?
「博士号」は全く国家資格でもなんでもなく5年間という時間を研究に捧げた時間に比べれば、多く得られるものはないかもしれない。あえてその名前の価値としての「博士号」は、どこで取得したのかによる「ブランド力」なのかもしれない。しかしブランド力は大学から与えられたモノではなく、自身の価値ではない。日本の大学で「博士号」はお金を出して買ったものであり、企業ブランドと同じで、所属して終了しました「はい」終わりという証明書である。
ただ博士を取っただけで自分ブランドを身につけない「博士号」には価値はない。今後、「博士」に自分価値を身につける施策が必要だと思う。
研究者の価値で悩まれている方がいれば是非コメント頂けたらありがたいです。
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